8年前の今日、父が他界した。
その前の晩。父にとっての最後の夜は、
ちょっと不思議な夜だった。
消灯前、看護師さんが巡回してきて、カーテンを閉めようとしたら、
遠くで打ち上げ花火がたくさんあがっていた。
6月の山形で、打ち上げ花火をするイベントは思いつかず、「なんだろうね」
と言いながら、その花火の美しさに、看護師さんと母と3人で、しばし見とれた。
もう消灯時間は過ぎようとしていたけれど、
看護師さんは「あんまりキレイな花火だから」と、
まだ起きている患者さんに花火のことを教えてあげようと、足早に病室を出て行った。
消灯の21時を回り、毎晩泊まり込んでいる母を置いてそろそろ帰宅しようかという
その時、病室の出入口のカーテンがかすかに揺れた。
そこには、家族ぐるみでお付き合いのあるご夫婦が立っていた。
ご主人は、高校教師だった父が担任した生徒さんだった人だ。
面会時間を過ぎていたけれど、守衛さんが通してくれたのだという。
手にはサクランボの箱。奥さんが働いている農園の初物だそうだ。
父の意識がもうないことはご存知だたったが、それでも、父に、と。
実はこの頃、変わり果てた父の姿を人様にお見せするのがさすがに辛く、
面会はお断りしていた。
しかし、その夜は、母も私も、自然とお2人を招き入れていた。
父の体に酸素を送り込むポンプの音が規則的に響く病室で、
ベッドに横たわる父の姿を見るなり、彼は父の手を取り握りしめた。
みるみるうちに、彼の目に涙が浮かぶ。
「先生、今まで本当によくがんばったんだな、えらかったな、先生」
母も私も彼の奥さんも、涙しながら、2人を見ていた。
それまで、お見舞いにいらした方々からは「がんばって」「奇蹟を信じて」
と言われていた父であり、私たち家族だった。
「よくがんばったな」と言われたのは、この時が初めてで、最後だったと思う。
「また来ます」とは言わずに、ご夫婦は帰って行った。
なんだか不思議な夜だね、と言いながら、私は母と別れ、車で家に戻った。
家について、ビールの缶を手に取ろうとすると、電話が鳴った。
母からだった。
「今すぐ病院に戻って。たぶん、今夜だと思う。」
看護師だった母の仕事の勘なのか、配偶者としての勘なのか。
とにかく私は、病院に取って返し、父のベッドの側で仮眠をとった。
母は、ずっと起きて父の側に座っていた。
明け方4時頃、母に起こされた。
「そろそろよ。」
父の呼吸が、明らかに浅く、弱くなっていた。
深夜勤の看護師さんに来てもらい、様子を見てもらう。
彼女は、母が看護学校の教官時代に担任した方。
この朝は、小学校1年生の娘さんの初めての運動会で、
前の晩、「晴れたら夜勤明けに応援に行けるんだけどね」と
話していたところだった。
外は、音もなく霧雨が降っていた。
静かに、母と私は父を見守った。
そして6時を過ぎた頃、いよいよ父の呼吸は弱くなっていく。
行かないで、という思いと、穏やかに眠る父の顔の狭間で、
混乱したまま、言葉を発せぬまま、ただ困った顔で、
私は父を見つめ続けた。
静かに、本当に静かに、その時はやってきた。
その瞬間、病室が雨の音でいっぱいになった気がした。
ナースセンターのモニターもフラットになったようで、
夜勤明け直前の彼女が、スルリと病室に滑りこんできた。
誰も言葉を発しないまま、視線だけが行き交う。
「運動会、今日はできないですね」と私が言うと、
「泪雨だね」と、彼女が窓の向こうに視線をそらした。
6月の日曜日、冷たい霧雨が降る朝だった。