今年は、サッカーワールドカップがある年。
私にとって、ワールドカップを思うということは、父を思い出すことだ。
8年前。日韓ワールドカップが開催されて日本中が盛り上がっている頃、
既に意識のなかった病室の父の傍らで、テレビを観ていた。
確か、日本がワールドカップ初勝利をあげた試合で、普段は静かな内科病棟の
あちこちから、患者さんや看護師さんの拍手や小さな歓声が聞こえていた。
生きてる人って、元気なんだな。
とぼんやり思った。
歓声や拍手が不愉快なわけではなく、自分と父がいるこの病室とは
違う世界のように感じたのだ。
父は膵臓癌だった。
自覚症状はあったのに、なかなか発見できず、わかったときには
もう末期の状態だった。
1月に入院し、それでも、3月中くらいまでは、健康食品をのんだりしてた。
1ヶ月分で10万円、とか、そういうの。
同時に、痛み止めにモルヒネも使っていて、その量はどんどん増えていた。
それでも、父が痛みから解放されることはなく、
最後の1ヶ月は、ドルミカムという手術用の麻酔薬を使った。
ずっと、寝っぱなし。
次に薬の量を増やしたら、心臓が止まってしまうかもしれない。
主治医は、薬の量を増やすことに慎重で、それも当然なんだけど、
母と私にしてみたら、意識がないのに痛みで顔を歪める父をみているのは
本当に辛かった。
4月は、病床の父と辛うじて会話ができた、最後の季節だ。
桜も辛夷も桃も、大好きな花だけど、同じくらい切ない花。
看護師だった母は、父の看護記録をつけていた。
私がexcelでフォーマットを作って、1週間でA4、1枚。
自分で言うのもなんだけど、なかなかよくできた記録用紙で、
食事に排泄、投薬、鎮痛剤のタイミング、シリンジ交換の時間、
体温や血中酸素、見舞客まで記入する欄があり、
途中からは、看護師さんが記録に使ってくれるほどだった。
そんな看護記録だが、父を見送った後、ずっと手にとることができなかった。
病床の父を思い出すのも辛かったし、
おそらく既に認知症を発症していたであろう、
でも、まだしっかりしていたあの頃の母を思い出すのが、辛かった。
ワールドカップの年は、心の揺れ幅が、少しだけ大きくなる。
と、こんなことをブログに書こうと思って、
父の最後の頃の、モルヒネとドルミカムの投与量を調べようと思って、
8年ぶりに看護記録のファイルを開いた。
実は、父への薬の投与量があまりに多くて、主治医もハラハラしていたらしい、
ということを、看護師さんがコッソリ教えてくれて、
一体どれだけの量だったかと思ったのだ。
読み返すうちに、やはり辛くなってきて、投与量は確かめられなかった。
そして、私にとって父を思い返す縁(よすが)は、この看護記録しかないことにも
気づいた。(手紙や形見の類は事情があって全く残っていないのだ)
看護記録の中の父は、病気に苦しむ、痛みに耐える父だ。
思い出に頼る以外に、元気な頃の父やその言葉に触れることができないことが
8年たって、猛烈に寂しく感じた。
とはいえ、今の私が辛い気持ちでいるかというと、そういうわけではない。
その後、母の認知症のことで様々な葛藤があったけど、
今の私は、父を偲び、両親との家族生活を懐かしく思っている。
父の形見がないことを寂しく思うのは、そんな気持の表れなのだと思う。
だとしたら、こんな寂しさも、悪くない。
寂しい、と思うことは、父を思い、思い出の中に父の声を聞く、ということなのだから。